海難1890 この映画でもやっぱり掘り下げ方が足らない気がして…最近、この感想が多い


【66 うち試写会14】今日と明日は三重県鈴鹿市にてお仕事、小田原からの「ひかり」乗車の関係で早めに着いたので、駅前のとっても昭和な喫茶店にて記事作成。
大きな音で流れている店内のテレビの時代劇が、うるさすぎる(__*)

1890年、和歌山県串本町沖。後のトルコであるオスマン帝国の親善使節団を乗せた軍艦エルトゥールルが座礁して大破、海に投げ出された乗組員500名以上が暴風雨で命を落とす。そうした過酷な状況下で、元紀州藩士の医師・田村元貞(内野聖陽)やその助手を務めるハル(忽那汐里)ら、地元住民が懸命の救援活動に乗り出す。イラン・イラク戦争中の1985年、日本政府は危機的状況を理由に在イラン日本人の救出を断念。そんな中、トルコ政府は彼らのためにある行動を取る。

 日本とトルコの長年にわたる友好関係をテーマにしたドラマ、海難事故に遭ったトルコ軍艦エルトゥールル号への日本人による救援と、トルコ人によるイラン・イラク戦争時の在イラン日本人救出という、両国の絆を象徴する二つの出来事を見つめるという映画。

 1890年(明治23年)9月16日21時ごろに折からの台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁したエルトゥールルは、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こした。
22時半ごろに沈没樫野埼灯台下に流れ着いた生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。
灯台守は応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦である事を知った。
通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。
この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。
物語の前半部はこうだ(少し映画での描き方は違う部分もあるが)。
この史実は、自分は昔、和歌山の南紀に波乗り行った際に立ち寄った潮岬灯台で知ったが、これほどまで献身的に住民ががんばったって事はこの映画で知り得ることが出来た。


 物語の後半部は、、1985年(昭和60年)のイラン・イラク戦争における逸話。
当時、イラクのサダム・フセインは、イラン上空の航空機に対する期限を定めた無差別攻撃宣言を行った。
各国は期限までにイラン在住の国民をメヘラーバード国際空港から軍用機や旅客機で救出したものの、日本は自衛隊の海外派遣不可の原則のために、航空自衛隊機による救援が出来なかった。
さらに、日本航空は「イランとイラクによる航行安全の保証がされない限り、テヘランのメヘラーバード国際空港行きへの臨時便は出さない」とし、在イラン邦人はメヘラーバード国際空港の出発ロビーで、誰にも助けて貰えない危機的状況に陥った。
野村豊イラン駐在大使が、トルコのビルレル駐在大使に窮状を訴えたところ、ビルレル大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも。」と答えた。
大使の要請を受けたトルコ航空は自国民救援のための最終便を2機に増やし、機長オルハン・スヨルジュ(2013年2月24日死去)らがフライトを志願、215名の日本人はこれに分乗し、期限ぎりぎりで危機を脱することができ、全員、トルコ経由で無事に帰国できた。
ちなみにトルコ機は、トルコがイラン近隣に位置することから、陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を優先、この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は、陸路自動車でイランを脱出することとなった(もちろんこちらも、少し映画での描き方は違う部分もあるが)。


 いやでも涙流れる感動映画なんだけど、描き方があまりにもド直球の「泣いてください」なんで、ちょっと鼻白む感が…。
それに、史実を描くのだからもう少し深掘りして欲しいというのもちょっと残念感となる。
ま、そんなこと、つべこべ言わずに、「日本とトルコの友情」について、素直に感動しておきたいので、子供さんにお勧めってことで。
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